竹田和平の生い立ちから学ぶ!日本一の株式投資家になる4つのポイント

日本屈指の長期投資家である竹田和平氏の生い立ち

竹田和平氏は、本当に多くの方から注目されています。投資の面でも、自己啓発の面でも実に多くの方を引きつけているのです。そんな方は、どのような人生を送ってきたのか気になりますよね。そこで、今回は時代背景等を含めて竹田和平氏の生い立ちについて色々とご紹介させて頂きます。

1.1993年2月4日、愛知県名古屋市にて生まれる

竹田和平氏は、1933年に愛知県名古屋市にて生まれました。同じ年に生まれた著名人ですと、漫画家の故藤子・F・不二雄先生や俳優の宍戸錠さん、オノ・ヨーコさん等がいらっしゃいます。また、第125代天皇、平成の今上天皇陛下が誕生された年でもあります。つまり、竹田和平氏は同い年だという事ですね。
この年、フランクリン・ルーズベルト米大統領が第32代米大統領に就任しました。フランクリン・ルーズベルトといえば、お馴染みのニューディール政策ですがこちらも1933年に始動しています。そこで、もう忘れてしまったという方の為に、簡単にニューディール政策についてご説明致します。この制作は、新規まき直し政策とも呼ばれています。1929年、世界恐慌が引き起こされました。その世界恐慌を克服するために行われた一連の経済政策なのです。ちなみに、この時日本では高橋是清によって一早く世界的な大恐慌を抜けだしています。この政策と一致する所が多いため、日本人としては覚えておきたいポイントです。このように、1929年から続いていた世界恐慌、日本は抜けだしたといってもまだまだ安定はしていません。現在、日本の中でも屈指の長期投資家・竹田和平氏はこんな時代に誕生していたと考えるとなかなか興味深いものです。
ちなみに、竹田和平氏の誕生日は2月4日です。では、この日には何があったかと言いますと、長野県教員赤化事件において、教員が思想問題によって多数検挙された日でもありました。つまり、まだまだそういう時代だったという事です。今とは全く違っていますね。大陸への侵攻も始まりかけていたそんな時代に、竹田和平氏は名古屋にあるお母様の実家で誕生したのです。
ちなみに、竹田和平氏を取り上げた産婆さんは、その後も6人の弟や妹を取り上げたそうです。穏やかで、にこやかな面影を今も覚えているのだとか。現在は、産婦人科で出産するという方が多いのですが当時はこのように産婆さんを呼んだり、出産に慣れている親族や近所の人間がやってくる事も多かったそうです。
そして、幼少期で注目したいのは、なんといってもご先祖様を敬っていたという点です。竹田和平氏のお祖母様はご先祖様の命日になると、いわゆる精進料理を欠かさず作っていたそうです。命日と言っても、当時は本当に子沢山な時代でした。そのため、1ヶ月に何回もそんな日がやってきます。しかし、お祖母様は必ず精進料理を作っていたのだとか。ご先祖様を敬い、大切にする心というのは幼少期からこのように育てられていたのでした。
また、お祖母様は何か縫う際にも南無阿弥陀仏と唱えていたそうです。朝の読経も日課でしたし、これは家族全員の日課でした。もちろん竹田和平氏ご自身も参加されていたそうで、4歳の時にはすでに参加していた記憶があるそうです。このような家で誕生した事が、今の会長の「ありがとう」というキーワードに繋がっているのですね。
ちなみに、当時竹田和平氏は13名という大家族で暮らしていました。なんと9人もおじおばがいたというのですから、今ではなかなかピンと来ないですね。しかし、この家族の中で当時子どもは竹田和平氏だけだったそうです。また、竹田和平氏は生まれてから40日後にはお祖父様が亡くなられています。元々は農業をしていたそうですが、大正の終わり頃からは菓子業に転じていたそうです。そこで、家の借金を返す為にと家族はよく働いていたそうで、その意識も一致していたのだとか。つまり、家族が一丸となって働いていた事がよくわかります。
そして、妹さんもすぐに誕生したそうです。そのため、竹田和平氏が一緒に眠るのはもっぱらお祖母様。ご先祖様の命日に精進料理を作り続けていた優しい心のお祖母様です。お祖母様は字が読めませんでした。しかし、逆にお話がとっても上手で聞き上手でもあり、語り上手でもあったそうです。そのため、毎晩お祖母様の話を聞いて眠るのが恒例だったのだとか。ちなみに、近くを走る汽車を見るのが大好きだった竹田和平氏の為にお弁当を作り、一緒に汽車に乗ってくれたそうです。といっても、次の駅ですぐ降りてまた汽車に乗って家に帰る、という道程です。しかし、当時の竹田和平氏としてはとても嬉しかったのではないでしょうか。このような優しさが非常に印象に残ります。
また、幼少期の最大の楽しみというのはお祭りだったそうです。確かに、今の時代は娯楽に溢れています。中には、小型のゲーム機を持ちながらお祭りを歩くなんていう子どもを見かける事も増えてきました。しかし、この時代子ども達の娯楽は少ないものでした。お祭りになると、近くの旦那さんの家が必要な物を全て揃えてくれます。はちまきやハッピももちろん、獅子の祭壇からお菓子まで。そうして、神社にお参りしたり、他の獅子と会う事があります。この時、竹田和平氏はこの耳取り合戦を見て非常に興奮したそうです。これは、怖さによる興奮なのだとか。しかし、旦那を生きたいという想った原点というのは、このお祭りにあったのだと会長は語っています。
このように、竹田和平氏は今の子ども達とは全く異なる時代に誕生しました。生まれてからすぐにお祖父様が亡くなってしまい、優しいお祖母様や多くの大人達と過ごしました。そして、そうしているうちに次々に妹や弟が誕生します。ご先祖様を敬い、毎朝読経をする家が竹田和平氏のルーツを辿る上で非常に大切なものなのです。

2.満州での生活・戦後をたくましく生き抜く

竹田和平氏が誕生した頃は、今とは全く違って非常に子どもの数が多い時代でもありました。その背景には富国強兵もありますし、産業革命も存在します。これは悲しい事ですが、当時は農家に生まれた子どもは殺す事によって人数を調整するという事が実際にありました。そして、富国強兵の時代では「生めや増やせや」という標語があったくらいなのです。そこで考えなければならないのが、農家がたくさん子どもを生んでも、確かに人手にはなります。しかし、生みすぎてしまっては田んぼや畑が足りなくなってしまうのです。簡単に増やす事は出来ませんし、結局は家を出て行ってもらう事になってしまうのです。そんな時、竹田和平氏のお祖父様はそれなら子ども達だけを出すのではなくて、みんなで出ようと決心されたのです。これは、竹田和平氏が生まれる以前のお話。大正の終わりの時代です。そこで、今の金額に換算すると一億円以上の借金をして製菓業を始める事になったのです。
そして、竹田和平氏が生まれた頃には、すでに家の裏にお菓子を作る工場がありました。そして、借金を無事に返済し終わったという事で、竹田和平氏のお父様が独立されました。しかし、竹田和平氏にとっては新しい家の方よりも今まで住んでいた家の方が居心地が良かったらしく、学校が終わると元の工場の方に戻っていたそうです。ちなみに、農家がこういった製菓業を興すというのには、大きな努力や信頼が必要になります。そこで指揮を取ったのが竹田和平氏のお祖母様です。こうして色々と生い立ちを調べていると、お祖母様の影響をかなり受けられているのではと思います。少なくとも、まだ幼かった竹田和平氏にとって非常に大きな存在だったのではないでしょうか。
ちなみに、今ですと幼稚園や保育園に入るのが当たり前の世の中になっています。そこで、お友達が出来るというのが当然でしたね。逆に、入っていないでお友達を作るというのは難しい時代になっているのです。しかし、竹田和平氏の時代では全く違います。みんないつの間にか仲良くなり、時には大人やたくさんの人との出会いがあります。竹田和平氏ご自身もこの出会いが大切だとおっしゃっていますね。
そんな楽しい時間でしたが、あちこちで戦火が聞こえてきました。竹田和平氏が誕生する前にはすでに満州事変が起こっていて、竹田和平氏は4歳の時には支那事変が起こります。この時、まず一番上のおじさんに召集令状が送られてきたそうです。そして、1年生になった時には、竹田和平氏も満州のハルピンというところに一家で引っ越したのです。この道中、親とはぐれてしまった事があったのだとか。当時、子どもをさらってサーカスに売る、なんていう話もありました。幼少時にさらってから仕込まないと、ある程度大人になってからそれだけの芸を身に付けろと言われても確かに難しいもの。そこで、子どもをさらうというのが良くある話でした。もちろん当時の竹田和平氏もその話を知っていたのですから、怖かった事でしょう。
ちなみに、当時はマルクス主義によって革命が起こりました。そこで、ロシアの貴族達は満州に逃げ込んだのです。そして、彼らによって満州に作られた都市というのがハルピンでした。そのため、当時のハルピンというのはロシアにそっくりだったそうです。竹田和平氏もロシア人の方の借家に住んでいたそうです。もちろん、借家といっても大きなホールがあったりとかなり大きな豪邸だったとか。当時、初めて見た時には会長もとても興奮されたそうです。
しかし、戦後の時代がやってきます。戦後、竹田和平氏も菓子の材料を闇市で手に入れたそうです。自分のいらない物を、必要な物と替える事が出来ました。他にも、多くの商売人達が存在していたそうです。その時代、やはり人々は物々交換をしていました。この時、一緒について行った竹田和平氏は農家の玄関口で「現金はだめよ」と言われる声を何度も聞いているそうです。こういった事態になった時、お金は何も価値が無くなります。物々交換として価値のある物のみが価値を得るのです。今現在も、紙幣の価値が無くなれば物々交換の世の中になります。そういった時の為に備えておく事も大切なのだと竹田和平氏はおっしゃっています。
中学生になると、授業というのは殆どありません。行うのは開墾作業で、兵舎で泊まり込みの作業をする事もあったそうです。ちなみに、竹田和平氏は疎開を経験されています。戦争が厳しくなった時に、子どもたちは田舎へと疎開しました。ひどい状況の中、この疎開生活では自然と触れ合ったり、村の大人たちの影響もあり、非常に刺激になったそうです。そうした時代があり、日本は終戦を迎えます。
そうして、高校を卒業する頃にはもう戦後の雰囲気ではなかったそうです。当時、日本は30年ほどかけないと戦争前の生活水準には戻れないと言われていました。しかし、当時の日本はわずか10年で以前の生活水準へ戻ったのです。それだけ、民衆のパワーも大きかったという事なのでしょうか。

3.『事業は顧客のためにあり』の理念の元、会社を大きく成長させえる

竹田和平氏は、高校に行けず悔しい思いをしたそうです。しかし、中学校を卒業する歳には答辞という栄光ある役目を果たしたのだとか。そして、昭和24年になると春から竹田和平氏は菓子造りのために1年間お父様のご友人の家で住み込みをする事になります。この時、何度も心に傷を付けられたと語っています。いつも人に優しい竹田和平氏ですが、この時人の上に立ったら自分はそんな事をしないと誓ったそうです。確かに、竹田和平氏はいつも優しい言葉で周りの方の心を癒しています。中には社員の心を傷つける経営者というのも確かに存在するのですが、竹田和平氏はそうではありません。若い頃の経験が、今も活きているという事ですね。
ちなみに、昭和23年からご両親と竹田和平氏と三人で菓子造りを始めたそうです。この時、竹田和平氏はお父様に交渉して自分の売上に歩合を付けてもらったそうです。そして、その稼ぎで欲しいものを色々購入出来たのだとか。例えば、オートバイやカメラを購入しました。そうして生活している中でも、会長は勉学の事を忘れません。やはり、高校くらいは出ておこうと決意をし、夜学に通う事になるのです。ちなみに、この夜学へは自転車で通っていたそうです。
夜学では、仲間と新聞部を作りました。また、当時夜学に通っている仲間というのは貧しい方が多かったそうです。逆に、竹田和平氏は使えるお金がありました。そこで、学校の帰りによく仲間に中華そばを振る舞ったそうです。この時の経験と、幼児期によるお菓子の経験が、人に物を贈るという喜びの要因になったのだとか。これがまた竹田和平氏の成功への力になったそうです。
また、この時竹田和平氏は早朝に起床して、働きそして夜になると夜学に通っていました。収入があり、税金も取られます。しかし、一方では働かないどころか援助金を貰って野球に勤しむ学生もいたわけで、これを理不尽だと考えていたそうです。竹田和平氏は教育も民で行うべきだとの考えを持っていますが、その根はこの夜学での生活にあるのではないかと語っていらっしゃいます。
そして、それから労働争議の名をかたり、統制経済を目指す思想が猛威を振るっていたのです。強制的な税務調査が起こり、利益の75%という途方も無い金額が税金として持って行かれてしまったのです。そこで、一部の方々は商売が出来なくなってしまいました。そんな中、竹田和平氏は正々堂々誇りを持って生きるのだと言い聞かせていたそうです。そして、この判断が正解だったと後に語っています。実際、納税する勇気に負けて、利益を隠し死に金を作ってしまったという方から、負けてしまったと言われたそうです。確かに、当時の事を考えるといかに利益を隠すかというのもポイントの1つだったでしょう。そんな時代でも、竹田和平氏は前を向いて突き進んでいたのです。
そして、この労働争議をきっかけに、社会と資本の利害を一致させなければならないと考えた竹田和平氏は持株会を作りました。しかし、竹田和平氏はここで二重のリスクについて考えたのです。勤めている会社の株を持つという事は、二重のリスクになってしまいます。そこで竹田和平氏はその趣旨の論評を読む事で持株会を中止させます。資本もまた市場に任せる事が一番なのだと考えたのです。
そこから、竹田和平氏の仕事は軌道に乗っていました。普通であれば、そのまま安定した経営を続けていきたいというのが多くの方の考えです。しかし、竹田和平氏はこのままでは自分の能力が伸びないと判断したのです。そこで、札幌の渡って製菓業をする事になりました。知らない土地、そして自分の能力試しでもあります。そこで、竹田和平氏は命がけだったそうです。
『事業は顧客のためにあり』という言葉を大きく書いて部屋に掲げたそうです。そして、北海道は竹田和平氏のお母様の生まれた場所でもあります。そこで、竹田和平氏はたくさんのソウルメイトと知り合う事になりました。情熱を注いでいると、そこにたくさんの方が手助けをしてくれます。そういった安心感と、やれば出来るのだという自信という大きな収穫を得ました。そして、実際に札幌で竹田和平氏はまた成功するのです。
例えば、小売店側が瓶を求めている事がわかると、会長はボーロを瓶に入れて販売しました。ここで、事業というのは顧客のためにあるのだとひらめいたのです。そして、顧客は何をすれば喜ぶのかと考えると、知恵がひらめく事にも気づきました。ちなみに、この時期サンドビスケットが売れていました。そこでサンドボーロを発売すると、これがヒットして竹田和平氏の会社は波に乗る事が出来たのです。この時名古屋工場も思わしくない経営状態だったのですが、このサンドボーロによって復活したそうです。
34年には名古屋へ戻ったのですが、この時世の中はオートメーション革命で盛り上がっていました。ちょうどこの時、人件費が高騰します。当時は、今の工場のようにオートメーション化はしておらず、多くの人手を必要としていました。そして、竹田和平氏もこの状況を受けて自動化に乗り出します。そして、ボーロ製造の機械化に成功しました。それから5年後には日本一のボーロという評価を受ける事になるのです。

4.日本一の個人株式投資家が誕生する

昭和40年になると、竹田和平氏は美濃工場でカステラの日本一を目指していました。しかし、これはなかなかうまくいかず、途中であきらめてしまう事になります。そこから、逆にウエハースの日本一を目指しました。その時に、麦ふぁを開発し、これがヒットする事になるのです。ちなみに、この麦ふぁは現在でも販売されています。インターネット上でひそかなブームになった事もあるくらいで、その味には定評があります。中には、あまりの美味しさに竹田製菓に手紙を書いて送った事があるという方もいらっしゃいました。ビタミンEが豊富に含まれた小麦麦芽とミルクカルシウムが入っており、育ち盛りのお子さんのいるご家庭や、お年寄りからも人気です。食感はさくさくっとしており、香ばしさとバニラクリームの相性が良いとかなり評価も高い今も愛されているお菓子の1つなのです。
そして、その頃から菓子は過剰供給となります。そして、竹田和平氏はこれからの時代は事業も多角化していかなければならないと考え、45年に日本では初となるレジャーセンターを作ったのです。また、それだけではなく株式投資にも積極的に手を出すようになりました。株式投資によって事業の多角化を考えたのです。そして、結果として金融と放送の2社の大株主となりました。菓子業の経営者でありながら、常に様々な展開を考えて先を読んでいたという事が良くわかりますね。
そして、昭和50年には竹田製菓の本社を駅前に移転しました。これは、人材開発と投資の積極化を考えていたそうです。また、この時にブランド展開も考えていました。しかし、ちょうどグリコ事件が発生し、やる気が失せてしまったというのです。名前ではグリコ森永事件と言われていますが、京阪神を舞台にした一連の企業脅迫事件です。犯人はわかっていないのですが、様々な犯人グループとの繋がりが考えられたり、その後類似事件も発生しました。最初は社長の誘拐から脅迫や放火を行い、一社に向けたものだったはずが製菓会社が次々とターゲットにされました。ちなみに、当時滋賀県警の本部長は退職の日に焼身自殺をしており、今もテレビで特集をされたり、この事件を扱った小説も出ています。
そうして、この事件でやる気を失ってしまった竹田和平氏はブランド化戦略を諦め、お菓子の城の準備に入ったのです。このお菓子の城は61年に高松殿下のご臨席の下にオープンされました。この時の事を、竹田和平氏は人生で最高の感激であったと語っています。それから62年には道の純金事業を始めます。そして、63年には金毘羅さんによって純金恵比寿福わ内の仕事をしたり、バッチのプレゼントを楽しむ事になりました。
平成になると、バブルがやってきます。そして、地下や株価は軒並み高騰しました。しかし、高騰したままではありません。それらも惨落してしまったのです。ちなみに、この時竹田和平氏は持病を患っていました。そのため、無理が出来なかったそうです。そこで逆にこの流れに巻き込まれないで済んだのだとか。しかし、平成5年には持病とはまた違った病気を発病してしまい、入院する事になってしまいました。それから竹田和平氏は健康第一の人生を考える事になったのです。リフレを作ったのですが、毎日通っているそうです。また、この時から竹田和平氏は健康を維持するというだけではなく、天命を意識するようになりました。毎日幸せの花を咲かせる事を考え、自己改善にも取り組みました。その1つが、朝陽に向かって大声で祈るという事だそうです。この歳になっても、竹田和平氏は自分を成長させる事を忘れてはいないのです。
病によって経営を離脱する事になってしまったものの、逆に竹田和平氏は様々な気付きを得ました。恵比寿クラブを創立したり、各種彫刻や歌集の出版、そして旦那様時代の到来もこの時確信したそうです。これを、竹田和平氏は病のおかげだったと語っています。
そして、平成のバブルはパニックも引き起こしました。そこで竹田和平氏は山一の株で大損してしまうのです。そこから逆に小型株へのバリュー投資に移行する事になりました。ちなみに、山一證券とはかつて存在した証券会社の事です。一時期は日本の4大証券会社と呼ばれていた事もありましたが、不正会計事件もあり、その後経営破たんしてしまい、平成9年には廃業する事になってしまいました。バブル期には毎年1,000億円以上もの経常利益を上げていたそうですが、平成元年からは数回にわたって公定歩合の引き上げもあり、同年の12月からは暴落を重ねるようになっていったのです。
そんな時代もあり、平成14年になると竹田和平氏の気もゆるんでしまいました。そして、そこで再度入院する事になり、大手術を受ける事になってしまったのです。この時、竹田和平氏はこれを天からの最後の注意なのだと受け止めました。そして、そこから「花咲爺」を名乗って生きると決めたのです。この花咲爺というフレーズ、竹田和平氏の名刺にも存在しています。
そして、小型バリュー投資に移行してゆっくりと行動を楽しんでいるうちに、竹田和平氏は日本一の個人投資家としてどんどん注目されるようになります。そこで多くの取材を受けたり、多くの出会いがありました。若手の経営者とも交流したりと、非常にフットワークが軽い方なのです。
そこから、竹田和平氏の積年の願いだった「純金百尊家宝」の発表をする事になります。これはホームページの告知だけで大々的な宣伝はしていないものの、順調に売れているそうです。竹田和平氏は今まで損失や病から逆に道を切り開いていっています。これこそが天が運を開いてくれているのだとお考えになっているそうです。どんなに悪い状況に陥ってしまっても、そこから何を考えるかで今後は決まっていきます。竹田和平氏と同じ人生が用意されていたとしても、考え方が異なれば全く方向性は異なるのではないでしょうか。私達の人生にも良い時があれば悪い時も当然存在します。しかし、そこから学ぶ事も必ずあるはずです。悪い時を学びや今後の為の修行だと考えて、前を向いて生きていきたいですね。

まとめ

1.1993年2月4日、愛知県名古屋市にて生まれる。
2.満州での生活・戦後をたくましく生き抜く。
3.『事業は顧客のためにあり』の理念の元、会社を大きく成長させえる。
4.日本一の個人株式投資家が誕生する。

編集後記

今回は、日本一の個人株式投資家・竹田和平氏の生い立ちをご紹介させて頂きましたがいかがだったでしょうか。今とは違った困難ばかりが襲いかかってきたあの時代、相当な努力をされたのですね。そして、何より相手への感謝の心を忘れていなかったというのが印象に残りました。竹田和平氏に習い、相手への感謝を忘れないようにしたいものです。

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