逆境を乗り越えた貧困生活!二歳で養子になって恵まれた日々から一転

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養子にされた訳

今から六十数年前のことですが、幼いときは、私は仙台市北三番丁で暮らしていました。

周辺は一戸建て住宅が整然と並ぶ住宅街で、広い通り沿い(国道48号と西公園通り)には診療所や豆腐屋、床屋、魚屋などの店舗が並んでいました。

北に五分くらい歩くと、国道48号の向かいに東北大学医学部付属病院があります。

国道48号と西公園通りは、Tの字になっていて、東西と南北に仙台市営路面電車が走っていました。西に10分ほど歩くと、深い谷部を広瀬川が西から南に大きくカーブを描くように流れています。

北三番丁には父方の叔母夫婦がいて、四年近く実子のように育てられていました。

年子の弟が生まれて間もなくだったようですから、二歳ごろからだと思います。

昭和二十八年のことです。叔母夫婦の元に預けられた頃の当初の記憶は全くありません。

叔母夫婦には、子供ができなかったようで、私を養子にするはずだったのでしょう。

祖母の指図により、そうなってしまい、弟に乳を与えている母には、姑の祖母に従わざるを得なかったようです。

父は、当時三十二歳頃で、牡鹿半島にある漁村の、稼げない漁師でした。私の上には、二人の兄がいました。

祖母は、一家の口減らしと、叔母夫婦に子供を授けることと、ダブルで考えていたのかも知れません。

養子ではなくなる訳

北三番丁では、家の前は畑になっていて、家の隣には鶏小屋がありました。

毎日卵かけご飯を食べていました。当時、兄たちが暮らす漁村では、病気になると、栄養になるからと特別に卵を食べることができました。

食生活は、叔母夫婦の元にいたから空腹になることはなく、兄たちと比べて、かなり恵まれていたと思います。

だから、私の身長は兄たちより大きく、後に小学六年生では、健康優良児として表彰されたことがあります。

当時の漁村の生活では、全くあり得ないことですが、子供用三輪車を乗り回していました。

どういう訳か、一人で三輪車ごと市電に乗って、どこかの終点まで行ってしまったことがあります。

乗務員は、他の乗客の子供と思い込んで乗せてしまい、そうではないと気づいた時には終点だったようです。その後、交番まで叔母が泣き泣き迎えにきてくれました。

私が行方不明になってしまって、大変な大騒ぎをしたと、後になって叔母が私に繰り返し話していました。

五歳ごろになって、実の母は、北三番丁の叔母夫婦の家まで、私を訪ねてきたことがありました。

そのときの記憶が少しあります。母は帰って行くとき、市電の停車場でしゃがみ込んで泣いていました。

私は、その母に「おばちゃん、どうして泣いてるの。また来てね」と言ったそうです。

母は、その漁村から北三番丁まで、片道4時間近く掛けて来て、そして帰りました。

道中、実の息子に「おばちゃん」と呼ばれたことが引き金になって、祖母に私を連れ戻すと宣言したそうです。

叔母夫婦から引き離される

それから、間もなくして、私は慣れ親しんだ叔母夫婦との生活から、漁村に住む両親の元に戻されました。

昭和三十二年ことでした。

当時、私は、戻るというよりも、叔母夫婦から引き離される思いだったと思います。

私を引き渡すために、両親の家まで送り届けてくれた義父は、私が義父を嫌いになってしまうように、私が泣き出すまで、私の手の甲をつねり続けました。

私が泣き出すと、母まで一緒に泣き出したそうです。

義父にとっても辛いことだったろうと思います。義父が私に「さよなら」と言っても、私が義父を追い掛けてくることがないように、先手を打ったのでしょう。

また母は、義父が今まで息子を最高に可愛がってくれたのに、このような行為に出るとは予想もしていなかったようです。

この時から、私の一番の保護者は母なんだと思い込んだのかも知れません。なんとむごい引き離し作戦だっと今でも思っています。

母のことを「おばちゃん」と呼ばなくなったのはいつの頃からかは記憶にありません。

亡き母に聞いたこともありませんでした。気づいたときには「かあちゃん」と呼んでいました。

もしも、私が小学高学年ごろになっていたなら、両親の元に戻るかどうか、判断を任せられたなら、間違いなく「戻らない」と言ったと思います。

それだけ、叔母夫婦の深い愛情を受けて育てられていたと思っています。

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