キリスト教の聖書ではお金をどう見ているのか?

日本は未開文化なのか?

G7と称される 先進7カ国 は、アメリカ・カナダ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・日本を指すのは誰もが認知している事実です。

1980年代初めまでは、この7カ国の共通点は「自動車生産国」(カナダでは、五大湖沿いにアメリカのメーカー工場があった)であり、日本が仲間入りできたのも、まさしく世界に自動車産業が羽ばたいたことがきっかけでした。

ところが、2015年現在世界では、60から70もの国が自動車を生産している、と言われています。

では、G7の共通したファンダメンタルズは何でしょうか?

実は、日本以外の6カ国は全て「キリスト教文化圏」であることが共通項、として挙げられるのです。

では、日本の場合は?

そもそも、我々日本人は宗教文化を取り入れた暮らしを営んではいるものの、それが「教え」に基づいているわけではありません。

結婚式は「キリスト教教会式」、バレンタインデー、クリスマス、ハロウィンなどのキリスト教のイベントを、うまく取り上げているのは「商売のため」である色彩や、「楽しい祭り」としての面が強いのが事実。

その反面、歴史的遺産としての「お寺巡り」やパワースポット詣でとしての「神社巡り」も盛んに行われています。

元旦の神社参詣、そして人生の終末期には「お寺の住職」のお世話になり、「仏教寺院の運営する墓地」に眠ることが一般的です。

G7の参加国の人たちを友人に持つ方なら、日本人の宗教は何か?と聞かれることは一度や二度あるでしょう。

その時、あなたならどう答えますか?

日本には「ヤオヨロズの神」がいて…と説明する場合、ヤオヨロズ=八百万の意味がわからなければなりません。

800万もの神がいるとは、つまり「たくさんいる」「そこらじゅうに存在している」…「自然崇拝の国が日本」という意味だと、うまく持っていかなければなりません。

自然崇拝とは、言い換えれば「アミニズム」と解せます。

これは決して学問的な解釈ではなく、自然崇拝とは「あらゆるものに霊的存在が宿る」という意味で、日本は神の存在を表現している、と捉えるのが自然です。

ところが、これが大変な問題と捉えられるのが、先進国の文化圏なのです。

自然崇拝=アミニズム=未開文化圏…これが、先進7カ国の中の6カ国の人々の常識です。

日本人が四季折々の自然を楽しみ、自然に神を見出す自然な感情は、キリスト教文明社会ではなかなか理解されないもの。

逆にいえば、日本がG7にいる、ということが、世界にとって大変重要な意味を持って来るのがわかるのです。

キリスト教は、お金をうまく利用した

「新約聖書」は、キリスト教の教えを伝える2つの聖書のうちのひとつ。

「旧約聖書」がイエズス・キリスト(注:ここでは キリスト の表記をJesus = ジーザス(英)、イエズス(独)のうち、日本のカトリック教会で一般的に発音される イエズス に統一します)の生誕前の数千年に及ぶユダヤ人の歴史を扱っているのに対し、新約聖書はイエズスの生涯とその弟子の話を中心にしたものを言います。

イエズス・キリストは、イスラム教と異なって様々な肖像画や、彫刻、また教会の壁画や天井画、ステンドグラスなどに描かれ、表現されてきました。

また、仏教とも違うところは、仏教発祥の地、インドでの肖像彫刻である仏像が、西方へと伝播するに従って、どんどん顔かたちがデフォルメされて来ていることに対し、キリスト教の場合は、彫像そのものが美術品とされ、模倣されることでほぼ似たような表情、立ち姿、十字架にはりつけられる姿などが、欧米、中南米、アジア、ロシア、アフリカでもほぼ同じであることがわかります。

キリスト教文化、キリスト教文明と呼ばれるものは、実はこうしたイエズス・キリストを救世主とみなす「純粋な宗教」と、これにまつわる様々な経済が創生されたのが特徴です。

まず、キリスト教の教会を作ることで、多くの大工や左官の仕事が必要になります。

聖書を広めるために、印刷が発明されました。

宗教美術や宗教音楽が作られ、そのための音楽家や合唱隊などが、王侯貴族からお金を支給され、活動し始めます。

教会や、キリスト教施設はどんどんと豪勢になり、様々な装飾品を作り、売る仕事が生まれました。

金や銀、ダイヤモンドなどは、王侯貴族だけでなく、ローマ教皇にも贈られ、それによって多くの商売人がキリスト教の施設に出入りすることができるようになったのです。

1500年代から1600年代、キリスト教カトリックは「免罪符」を相次いで発行したことはあまりにも有名です。

ルネッサンス時期に教皇となった 第217代 レオ10世(Leo X 、生没年1475 – 1521)は、富豪 メディチ家 出身ということもあり、贅沢好きで名を馳せました。

こんにちバチカンで見られる サン・ピエトロ大聖堂 を作らせ、優れた画家である ラファエロ・サンティ や ミケランジェロ・ブオナローティ らを援助し続けるなど、結果的にバチカンの財政を破綻に導いていったのです。

この時期、ラテン系の人々に好まれたレオ10世でしたが、キリスト教の堕落と考えたドイツ人の中から、マルティン・ルターが出現、イングランド王はカトリックから独立し、イギリス国教会を創設するなど、キリスト教社会は四分五裂の状態に入ります。

ですが、逆にいえば、このときにキリスト教はその根本の「イエズス・キリスト」を失うことなく、欧州全体にしっかりと、より着実にその文化圏を広げたことにもなります。

キリスト教以外の宗教基盤が作られなかったのが、欧州、そしてそこから伝播した現在の北米、中南米であるのは間違いないのです。

新約聖書の一節、それはどう解釈できるのかで意味が変わる

新約聖書には、イエズスの最初の弟子となった12人のうち、4人の使徒(弟子)が当時のローマ帝国を歩いて、キリスト教を広める様子を書いた「使徒言行録」があります。

弟子の名は、マタイ・ルカ・マルコ・ヨハネ の4人であり、当時のお金の価値や食生活、様々な職業から、政治体制まで多くの表記があり、一種の歴史書にもなっています。

ここに、ある一節があります。

それが「マタイによる福音書25章 14~29節」で、イエズスが話した、と言われる例え話をマタイが民衆に聞かせた逸話です。

ある人が、旅に出かけることになり、部下の3人にお金を預けることにしました。

彼は、Aさんに 5タラント、Bさんに 2タラント、Cさんに 1タラントを預けました。

3人への金額の違いは、仕事の能力差で決めたのです。

さて、この主人が出かけた後、Aさんは元手の5タラントから、2倍の10タラントに増やします。

Bさんは元手の2タラントを、やはり2倍の4タラントに。

のこりのCさんは、というと、なんと1タラントを地中深く埋めて、そのままにしていました。

さて、時が経ち、主人が家路に着くと、Aは10タラントを見せ、主人を喜ばせました。

Bも4タラントを主人に見せ、喜ばせたのです。

ところが、Cはこう言います。

「ご主人さまは、怖いお人です。

あなたは、何も蒔かない場所から全てを刈り取ってしまい、何も散らさない所からさえ集める、ひどい人ですから、1タラントは隠しました。

これがそのお金です」

これを聞き、主人は「お前は悪い部下だ、蒔かない場所・散らさない場所から集め刈り取るなど、わかるのか?ならば、その1タラントは銀行に預けておけばよかった。利息がついていたところを!」

さらに、彼は言います。

「その1タラントは、10タラント持っているAに渡しなさい」

持つ人は、より持てる人となり、持たない人は持っている分でさえ、取り上げられてしまうのです。

この一節は、タラントの教え、という別名が付く話です。

この事実だけ見れば、キリスト教はお金を増やすことを奨励し、能力のある人はより富を増やすのが好ましい…とも解釈できます。

では、この「タラント」はお金の単位ですが、「1タラント=数千デナリウス銀貨」に相当しました。

古代ローマでは、「1デナリウス銀貨」が1日分の賃金に相当しますから、数年分から数十年分の収入が1タラントということになります。

これを今の日本の価値にすれば、5タラントが少なくとも1億円、2タラントは3,500万円、1タラントは2,700万円ほどと考えても良い金額です。

ここから2つの解釈が出てきましょう。

まずは、文字通り「才覚のある人は、お金を増やすだけの資質があり、期待に応えようと結果を出す」ということ。

その逆に「才覚があるのかないのかが不安な人は、チャレンジすることすら怯え、結局マイナス勘定を作ってしまう」ということです。

ですが、聖書ではもう一つの考え方を指摘します。

それは、人にはそれぞれ才覚や応分というものがあるが、懸けられる期待は皆同じ、ということです。

1億円を預かる人も2,700万円を預かる人も、大事なのは、お金に代えられない「信用」「信頼」を懸けられている、ということ。

それを無にする人は、全てを失う、ということなのです。

「日本の宗教観」は、実は キリスト教の考え方 にも通ずる力がある

聖書の一節は、「お金=信頼、信用」と価値を同等に扱った 比喩 であることがわかります。

では、なぜお金の話をイエズスは伝えたのでしょうか?

お金は世界共通の「交換手段」「取引手段」です。

例え話には「主人」の「部下に対する思い」が隠されています。

ですが、お金は全世界でわかりやすい「比喩の道具」なのです。

日本人も明治以降、急激にお金を増やすための様々なシステムが導入されました。

銀行しかり、無尽(むじん)しかり、頼母子講(たのもしこう)しかりです。

無尽や頼母子講は、多くの人たちがお金を出し合って、仕事を起こしたり、お金を貸し付けたりする仕組みで、現在はなくなりましたが「相互銀行」の元になります。

これらは第二地銀となり、現在の地方銀行がこれに当たります。

いかがでしょうか、日本は確かに自然崇拝の宗教観がありますが、それと同時にキリスト教文化を広く薄く流入させているのです。

その結果が、クリスマスプレゼントやケーキ、バレンタインなどのキリスト教イベントを積極的に「経済効果」に反映させています。

こう考えれば、キリスト教文化と日本人の心配り、思いやり文化が融合した、環境が日本にあり、しっかりと根付いていることがわかります。

G7で日本は絶えず、欧州とアメリカの間の調整役を果たしますが、その理由もうなずけるのではないでしょうか。

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