「決断」の重要性‐偉人に学ぶ「決断」の力

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歴史上の偉人達はいかなる「決断」を下したのか?

「決断は、勘やひらめき、そして度胸が必要だ」とはアサヒビール会長の樋口廣太郎氏の言葉ですが、人生のあらゆる場面で私たちは「決断」をしています。

それが日常に関する簡単なものであることもあれば、樋口氏の想定しているような、たとえば経営上の重大な「決断」の場合もや、場合によっては「歴史」に関わってくるような重要な「決断」も存在します。

今回は、歴史上の偉人に学ぶ「決断」の重要性について述べますが、直接的に「お金」とは関係がないかもしれません。

しかし特に自分でビジネスをしている人や経営者の人にとっては勿論のこと、普通の人にとっても思い通りの人生を生きるうえで「決断」について学ぶことは非常に有意義であると思います。

世界の「ソニー」を生み出した盛田昭夫の「決断」

「決断」の重要性に関して、日本人なら誰でも知っている「ソニー」の盛田昭夫氏のエピソードがあります。

人間は重要な決断を迫られると気持ちが高揚し、いつものように落ち着いて考えることが難しくなる傾向がありますが、盛田氏も34歳の頃にそのような大きな決断をしたことがありました。

盛田氏は、開発したばかりの小型ラジオの試作機をもってアメリカに渡っていました。

当時のソニーはビジネスそのものが不安定な状態で、さらには日本の企業が海外にモノを売り込みに行くなどほとんど考えられないような時代だったのです。

それでも盛田氏は初めての海外出張にも拘らず、果敢に売り込みを開始します。

やがて、そのラジオの試作機を見た大手の時計会社であるブローバ社の担当者が「10万個注文したい」と持ちかけてきたのです。

これにはソニー本社も大いに沸き立ったそうです。なにせラジオ10万個の売り上げというのは、当時のソニーの純資産すら超えていたわけですから、これは当然の反応といえるでしょう。

しかしここで問題が生じました。

先方の担当者が「ラジオにブローバ社の商標をつけて欲しい」と言い出したのです。

盛田氏はしばらく考えた後、「その件については、本社と相談してみましょう」と回答を保留しました。

なぜ、盛田氏は即答を避けたのでしょうか?

「ラジオ10万個」は当時のソニーの生産能力の数倍ほどもありました。

当然、それだけの注文があれば大幅に利益は上がり、その後に続く様々な研究をするための資金も捻出できるようになるでしょう。

当時のソニーにとって夢のような話なのは間違いないことです。

しかし盛田氏は「ソニー」を決して他社の下請けメーカーにはしたくありませんでした。

今でこそOEMなどが当たり前になっていますが、氏はソニー製品を自社ブランドで売って世界に名を上げたいと考えていたのです。

そこで一呼吸置くために、本社と相談するといったわけです。

実際に東京の本社と連絡を取り、取引について説明すると「ぜひ注文を受けよう。

(ソニーという)名前などいい」という回答でした。

しかし、盛田氏はほとんど独断に近いかたちでこの提案を断ってしまいます。

逆に「絶対に向こうの商標などつけてはいけない。せっかく『ソニー』という名をつけたんだ。我々はこれで行くべきだ」と熱意をもって本社を説得したのです。

そして日本側も氏の情熱に負け、説得に応じることになりました。

ですが提案を断る旨を聞いたブローバ社の担当者は、ソニーの決断をまるで世間知らずの子供の言葉であるかのように嘲笑いました。

「冗談だろう。こんな親切な注文を断るとは一体何様のつもりなんだ?」と。

そしてこうも言いました。

「我が社は50年も続いた有名な会社なんだ。あんたの会社のブランドなど、アメリカでは誰も知らない。我が社のブランドを利用しない手はないだろう?」
その場にいる誰もがそう思ったでしょう。

しかし盛田氏は敢然と言い返しました。

「50年前、あなたの会社のブランドは、ちょうど現在の我が社のように世間には知られていなかった筈です。私は今、我が社の新製品とともに50年後への第一歩を踏み出そうとしているんです。50年後には、きっと現在のあなたの会社に負けないくらい我が社を有名にしてご覧に入れましょう」

後にこの決断について、盛田氏は「人生最大の決断だった」と述べています。

当時の「ソニー」社員ならば、誰もが喉から手が出るほど欲しい注文を前にして大見得を切ったわけですから、これは当たり前でしょう。

事実、この決断のために、会社の顧問を務めてくれていた人物(のちの宮内庁長官)が「ここまでセンスのない経営幹部のいる会社などいられるか」と言い出して一悶着起こるわけですから、盛田氏以外にはとても考えられない「決断」だったことがわかります。

それでも結果的に、盛田氏のこの決断は正解でした。

その後の「ソニー」がどうなっていったのかは、私達日本人なら説明せずともよく知っていると思います。

今では、イチロー選手など大リーグで大活躍する日本人選手に対して「ソニー以来の素晴らしい輸出品だ」とアメリカ人は称賛を贈ります。

もし、当時34歳だった盛田氏がブローバ社の申し出を受けていたら、ソニーは下請け企業で終わっていたかもしれません。

盛田氏の一世一代の「決断」によって、世界に誇る日本企業が誕生したといっても過言ではないのです。

 

高杉晋作の「戦機」を掴むための「決断」

高杉晋作といえば幕末に活躍した多くの人々の中でも、とりわけ人気のある志士といえるでしょう。

歴史好きの人ならばよく知っていると思いますが、幕末の長州藩は「公武合体」や「尊皇攘夷」をスローガンに、当時の政局の中心にいたといっても過言ではありませんでした。

しかし有名な池田屋事件や、高杉の盟友である久坂玄瑞が散るきっかけとなった禁門の変で致命的損害を受けた長州藩に対し、幕府は追い討ちをかけるように軍を派遣しました(第一次長州征伐)。

その頃の長州藩は、いわゆる「正義党(改革派)」と「俗論党(保守派)」が交互に政権を担当している状況でした。

当の高杉は俗論党による暗殺から逃れるため、この頃は北九州に亡命していました。

そして文久4年(1864年)、幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩ではいよいよ俗論派が政権を奪取し、正義派の徹底弾圧に乗り出しました。

彼らにとって高杉をはじめとする正義派が、無謀にも圧倒的兵力差のある外国を打ち払おうとして、日本中を危機的状況に陥らせているようにしか見えなかったのです。

俗論派はひたすら幕府に恭順しようと非武装を掲げ、藩で製造していた軍艦までも幕府に提供しようとしていました。

無論、長州藩内では「幕府に対抗しよう」と考える者もいるわけですが、行動を起こす前に俗論派によって殺されていくような状況だったのです。

そんななか、たった一人立ち上がったのが高杉でした。

彼は長州の政権を奪還するために、北九州で仲間を説得して回りますが、ほとんど袖にされてしまいます。

それでも諦めない高杉は「功山寺」というお寺で、長州の政権奪取のためにたった一人で「決起」することを「決断」します。

もし、俗論党が軍艦までも幕府に譲り渡してしまうようなことがあれば、もう日本は終わりだと思ったからです。

多くの長州藩士が彼の申し出を無視したのですが、それでも求めに応じたのが、若き日の伊藤俊輔(後の初代内閣総理大臣である伊藤博文)でした。

高杉と伊藤は、身分に囚われず集められた民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いて、たった80人程度で挙兵します。

これに対する俗論派が率いる長州藩の正規軍は3000人です。

この時点で、彼の「決断」がいかに無謀なものであったかがわかります。

途中、かつて高杉の創始した奇兵隊が山縣有朋とともに加わりますが、それでも200人程度しかおらず、無謀な戦いであることに変わりはありませんでした。

しかし、ここから高杉達は「奇跡の進撃」を開始します。

各地の民衆を味方につけながら、絵堂にあった政府軍の本陣を夜襲したのです。

このとき、数でいえば約200人に対して約1300人の戦いであり、普通に考えれば高杉達に到底勝ち目などありません。

しかし歴史とは本当に面白いもので、彼らはこの戦いに見事勝利を収めるのです。

そしてそのまま萩城へ攻め上り、俗論党を倒し、正義派の政権を樹立してしまいます。

結果、高杉の「決断」に端を発した無謀なクーデターは成功し、彼は見事に長州藩を倒幕派に統一することに成功しました。

その後の歴史は私達のよく知るとおりです。

後の幕府軍との全面戦争では、高杉はミニエー銃という当時最新式の銃を用いた前代未聞の戦術を駆使し、見事勝利を収めました。

その結果、250年以上続いた徳川幕府の権威は完全に失墜し、我が国は一気に近代化への道を進んでいくことになったのです。

この快進撃の発端こそが功山寺での「決起」だったことを考えると、彼は「闘うべきとき」を見極めることに非常に長けていたといえます。

客観的に見ればどう見ても無謀な状況にも拘らず、高杉は「決断」することを厭わなかったのです。彼はまさに「戦機」を掴んだといえるでしょう。

しかし明治という新しい時代がすぐそこまでやってきているなか、高杉はまもなく病により戦線を離脱し、新政府を見ることなく20代後半で生涯を終えます。

それでも「世界史の奇跡」と呼ばれる明治維新のきっかけとなったのは、高杉晋作という男のたった一人の「決断」だったことに変わりはありません。

たったひとつの「決断」が歴史を動かしたのです。

東郷平八郎のインテリジェンスを用いた「決断」

「情報」というリソースを有効活用して、海の戦いの金字塔となった「決断」を下した人物に東郷平八郎がいます。

日露戦争における日本海海戦では、ロシアのバルチック艦隊が東洋にいる状況で戦いに望んでも、我が国に勝ち目が無いことは東郷はじめ多くの軍人がよく知っていました。

つまり、彼らがバルト海から戻ってくる途中で待ち構える必要があり、加えて当時開通したてのシベリア鉄道を利用してロシア陸軍が攻めてこないうちに、さっさと講和に持ち込める
ように、僅差の勝利ではなく「圧勝」をしなければならないという無謀な戦いだったというのが日本海海戦の本質だったわけです。

いくらバルト海からほとんど世界を一周するかたちでバルチック艦隊がやって来るとはいえ、我が国にはまともに彼らと対抗できるだけの軍備はありませんでした。

そのため集中攻撃をする必要があるわけですが、彼らがやって来ているという情報は各地の港から入ってはくるものの、ウラジオストクに合流するのに日本海を通過するのか、それとも太平洋回りで来るのかがわかりませんでした。

無論、兵力を分散させてしまえば絶対に勝つことはできません。

このような状況で、東郷連合艦隊司令長官は各地で疲弊しているバルチック艦隊が太平洋を回る余裕は無いと判断し、対馬海峡で待ち構えると「決断」したのです。

ロシアの輸送船が上海に入ったというような情報もありましたが、100%正しいとは限りませんし、予想とは逆に太平洋周りの可能性もありました。

その場合は最早帝国海軍に勝ち目はありません。

ですが結果的に東郷の「決断」は功を奏しました。

やはりバルチック艦隊は対馬に現れたのです。

しかし軍艦数の圧倒的差に加え、軍艦のスペックもロシアの方が優位であることに変わりはありません。

そこで東郷率いる帝国海軍は最新の無線設備などを駆使して、いわゆる「T字型(丁字型)」戦法で戦いに挑みました。

この戦法は、敵の目の前で両脇に艦隊を散らせ、分かれた艦隊同士が緻密に連絡を取り合うことで一隻毎に集中攻撃を浴びせるというものです。

これは一瞬でも動作が遅れてしまえば、こちらが集中砲火を食らい全滅する可能性があるぎりぎりの戦法です。

こちらが一方的に勝つか、一方的に敗北するかの戦いだったわけです。

結果、帝国海軍は文字通り「圧勝」しました。

こちらの被害は水雷艇が3隻沈んだのみでしたが、対するバルチック艦隊は戦艦6隻を含め16隻が沈没、6隻が拿捕されました。

50隻ほどから構成されていたバルチック艦隊で、無事にウラジオストクに入港できたものはたったの3隻だったそうです。

海軍におけるこれほどの勝利は、実は世界史にはありません。我が国の完全勝利です。

長期戦をするだけの国力もついておらず、かつごく短期で向こうに敗北を認めさせるほどの圧勝が要求されるという過酷な状況で、東郷司令長官は巧みな情報収集によって正しい「決断」を下したのです。

客観的に見れば絶対に勝ち目がないような状況でした。

しかし限りある情報からインテリジェンスを発揮することで、東郷は国の存亡を担う正しい「決断」をして、救国の英雄となったのです。
 

時には「歴史」に学ぼう

今回は3人の偉人から「決断」の重要性についてみてきました。 たった一人の「決断」が組織や国の存亡を揺るがすことがあるということがお分かりいただけると思います。 「お金」とは直接関係はありませんが、このように「決断」が人生にとって非常に重要となる場面が必ず来ます。 そんなときに正しい判断ができるように、様々な偉人から「決断」のタイミングやコツなどを学ぶことはとても重要なのです。 ※参考文献一覧 竹内一正(2002)「30代の「飛躍力」‐ 成功者たちは逆境でどう行動したか」PHP研究所. 和田秀樹(2014)「決断の心理学 歴史が語る40の深層」小学館.

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