宗教を追い出したフランスの「共和制」が危機にある現実とは

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古典的なAK-47がパリの市民に火を噴いた現実

2015年1月7日、パリ11区は聞き慣れぬ銃撃音で騒然となります。

午前11時半、ロシア製のAK-47 カラシニコフ銃と 短銃 Vz 61 スコルピオン(サソリの意味)が12名を殺害し、容疑者2人は印刷工場に立てこもった末に、射殺されました。

この事件のキーワードは「イスラム原理主義者」によるシャルリー・エブドの風刺画への「復讐」という見方が大勢を占め、フランス社会は過激なイスラム思想への反発と恐怖を併せ持つようになります。

しかしながら、もっと恐ろしい事実は AK-47 という自動小銃の存在です。

その誕生は、半世紀以上まえの1949年、当時のソ連軍が採用した時に始まります。

全長88cm、重量は4.3kg、射程距離350m、装弾数30発という古典的な小銃は、肩から下げることで、持ち運びもたやすく、あらゆる気候風土でも扱え、世界の紛争地帯で人気がある小銃ということで、未だにアメリカや中国でもコピー商品が作られています。

おそらく、設計者である、ミハイル・カラシニコフ氏もこれほどまで世界中に出回るとは想像もしておらず、その「力量」はギネスブックにも「世界で1億人もの命を奪った小銃」として、記載しているほどです。

ですが、自動小銃とはいえ、長尺88cmもの黒い物体を抱えて街を歩くのは、目立つはずです。

それが、堂々とどこからか運ばれ、そしてパリの中心地で発砲されるという惨事は、もはや世界のどの場所でもその危険性が存在する事を如実に語っている、というほかありません。

ソ連軍は1956年にハンガリーの動乱に乗じて侵攻し、1978年から10年間アフガニスタンへ軍事介入しています。

ところが、この際ソ連軍は多くの戦死者を出し、結果としてその終結はソ連軍の撤退、そしてペレストロイカという「ロシア共和国」への移行という社会主義の縮小へと導くことになりました。

つまり、AK-47は、ソ連の軍事行動と自国の崩壊によって、世界中に撒き散らされてしまった、といっても過言ではない、皮肉な小銃なのです。

そして、21世紀の今日、冷戦から民族紛争の主役となった AK-47 は、宗教をお題目にした過激思想派の手元に収まり、自由主義国家のひとつ、フランスで火を噴いてしまったのです。

これは、何を意味するのでしょうか?

フランス人が思考した挙句、ようやく作り上げた「宗教からの解放」という自由社会が、「宗教からの逆襲」という銃弾を突きつけられた事実。

これは、21世紀の人類が、非常に難しい局面に入っていることを示しているのです。

フランス憲法にはなんと書いてあるのか

ここで、フランスの共和制について考えていきましょう。

誰もが一度は中学校や高校の「歴史」の授業で学ぶ「フランス革命」は、1789年7月14日に起こります。

そして、有名な「バスティーユ監獄」に市民が暴徒化して襲撃し、火を放ちます。

バスティーユは、要塞を意味し、1382年に完成したパリ市街を守るための石造りの大きな建物であり、30mもの高さの円筒形がいくつも繋がったような形状をしていました。

窓は非常に少なく、鉄格子がはめられており、ここには専制政治に反逆する政治犯や、出版差し止めを命じられた著作など、様々な人や物が押し込められていた場所です。

フランスは、長らく王国として栄えてきましたが、その間にイギリスとの戦争や近隣諸国の世界進出などに遅れ、国内産業の中心である、農業市民は過酷な徴税で不満を募らせていました。

そして、国王の後ろ盾となっていたキリスト教関係者や配下の貴族たちは、階級社会のトップとして君臨し、一般市民は彼らの「僕(しもべ)」と成り下がっていたのです。

憤懣やるかたない市民は、専制政治のシンボル、バスティーユを打ち壊し、国会議員の投票の結果において国王と王妃をギロチンで処刑してしまいました。

実は、このフランス革命のもたらした意義の一つに「キリスト教社会からの脱皮」という一目があります。

国王が国王である所以は、キリスト教の認めるところであることが、欧州各国の共通概念でした。

ですが、キリスト教の教会はことごとく破壊され、その権威は失墜してしまったのです。

その後、ナポレオン1世は皇帝となり、再びバチカン(キリスト教 法王)との交流を行います。

フランスは、王国と共和国の歴史を繰り返し、その度に問題となるのが「ライシテ」です。

ライシテ、とは「政教分離」と解されることでわかる通り、現在のフランス憲法の根幹になっています。

1905年に政教分離法が制定されますが、実は 1946年の第4共和制憲法に、「ライック(ライシテ の英語形。政教分離・世俗主義)で、民主的で、社会的な共和国である」の一文が第1条に記されたのです。

この憲法は、第5共和制の今日も引き継がれており、信教の自由とともに、国家は宗教とは関係を持たない、という確固たる約束が国民との間で交わされているのです。

キリスト教と、フランス社会のねじれを理解しよう

私たちの日本社会では、様々な宗教が広く受け入れられています。

神道、仏教、キリスト教、イスラム教、そして「新宗教」と言われる、明治以降生まれた「天理教」や「創価学会」「PL教団」「立正佼成会」「幸福の科学」など、その数は、にわかには数えられないほどです。

また、それぞれの宗教の本山や、施設などは各地にあり、これについて国民の多くは宗教の自由には寛容なのです。

ところが、フランスは基本的に、キリスト教文化の中にあることは間違いありません。

ただ、その歴史を紐解けば、支配者と被支配者の関係が日本の武将と農民の穏やかな関係とは違い、「差別」が脈々と続き、その中身が際立っていることを理解する必要があります。

その理由はなんでしょうか?

それは教育制度にあります。

日本は古来から武士階級も農民も同じように学問を学べる場所が、各地にありました。

それは、神道や仏教の施設で行われてきたのです。

ならば、欧州各国の文化行政の基盤であったキリスト教の教会は、各地に学校を設立しているはずですから、一般民衆も同じように教育を受けてきたのではないのでしょうか?

実は、そこが日本とフランスの大きな違いでした。

日本の学校とは、仏教寺院が「民衆にもわかりやすい仏法を説き、生きるための様々な知恵を教える」ことを行っていたのに対し、フランスをはじめ欧州各国の教会は、ラテン語の学習という「よりアカデミックな学術」こそキリスト教の学問、と考えてきたわけです。

現在も、欧州各国で必修科目となっているラテン語は、格数(〜が、〜の、〜に、〜を、など)が7格もある、大変難しい語学で、多くの学生が苦手とするものなのです。

こうした難しさを権威付けにしてしまったキリスト教、それもカトリック教会(バチカンが総本山)の力が決定的になったのは、ルイ12世(1498年 − 1515年)の「離婚問題」でした。

彼は当時ヨーロッパが小さな小国の集まりだった頃に、フランスを拡大し、イタリアへも侵攻しようと企むために、政略結婚をしていました。

ですが、次々と諸侯の治める国を手に入れるには、より有力な諸王の娘と結婚する必要があったのです。

そこで、時のローマ法王 アレクサンドル6世(イタリア語読みでは アレッサンドロ6世)に取り入り、自分が未婚であるように取り計らってもらったのです。

キリスト教では「離婚」は認められていません。

結婚は神の前での誓いであり、それを破ることは「破門」を意味します。

国王と言えども、それは地獄に落ちることであり、絶対に避けなければなりません。

そこで、一度行った結婚を「無効」である、と証明書を書いてもらうことにしたわけです。

この時点で、ルイ12世はバチカンに「頭が上がらない」存在となり、それはフランス革命まで継続するのです。

ちなみに、このアレッサンドロ6世の「息子」の一人は、有名な「チェーザレ・ボルジア」であり、彼はイタリア統一を夢見て、勇敢で獰猛な将兵となり、ヨーロッパを驚かせます。

ここで、お気づきの方は「息子」に違和感を持つでしょう。

カトリックの神父は「生涯独身」でなければなりません。

ですから、本来子供を持つことはあり得ません。

アレッサンドロ6世には「愛人」がいたことは事実であり、こうしたこともまた、一般のフランス人からは「堕落した教会の頂点」と罵られていたのです。

(ただ、イタリア本国では、この点はさほど問題視されていないのは、イタリア人が法王に対して一番「無関心」を装っているから、とも言われています)

つまり、フランスの市民はキリスト教文化の中にいて、キリスト教の神父や司祭、法王などの行いや国王の結婚問題への介入、イスラム諸国との戦い(十字軍)など、様々な光景を見て、合理性のなさと権威主義を否定的に見るようになっていた、というわけなのです。

こうしたキリスト教精神を基本とした、教育は、実は根本から崩れていたのが、フランスの近世なのです。

フランスは「宗教から脱皮」することで、存在する意義がある。だが、それを理解するのは簡単ではない

ここまでの中で、いかにフランスが日本とは違う文化や歴史を抱いてきたことを理解できるのではないでしょうか。

共和制、それは「国家は宗教に影響されない」ということです。

ですから、フランスの学校に入ると、教室には十字架も掲げられていませんし、キリスト教に関する教育は皆無です。

隣国ドイツでは、どの学校でも「宗教」の授業があり、政党名にもCDU(キリスト教民主同盟)とCSU(キリスト教社会同盟)があって、長く与党の地位を占めています。

つまり、フランスでは「宗教の自由」はあるが、国家としてはどの宗教にも関与しない、という国是なのです。

さて、それが1989年9月、パリ近郊、クレイユ市の中学校で「スカーフ事件」として勃発したことは、記憶に新しいことかもしれません。

モロッコ系フランス人の女生徒とチュニジア系フランス人の女生徒たち、3人のイスラム教は教室内でスカーフを取るように指示されましたが、拒否しました。

その結果、彼女たちは退学処分となってしまったのです。

2004年3月15日、フランスは公立学校内で「宗教的な標示を身につけることを禁止」する法律を公布させました。

このことは、旧フランス領のアフリカ系移民にとって、大きなショックであったことは言うまでもありません。

ですが、フランスは国として、フランスがフランスであるためには、どうしても譲れない一線であることを示しました。

宗教は認める、が、国としては関与しない。

それは仏教でもキリスト教でも、イスラム教であっても同じである。

これこそが、社会主義の思想を色濃く反映した、フランス国の成り立ちであり、共和制の土台なのです。

ですが、そうした文化の背景を、イスラム教の人たちが理解することはできるのでしょうか?

日本人がかつて「隠れキリシタン」という人たちを生んだように、「隠れイスラム」というフランスでの合法手段を発見することはできないのでしょうか?

欧州の人々は、同じイスラム教国でも、トルコでは世俗主義を取っており、トルコではスカーフを身につけない女性を大勢いることを知っています。

フランスで、イスラム教は次第に異端なもの、と受け入れられ始めています。

つまり、フランス人が血を流して勝ち取った「宗教からの脱皮」による共和制が、イスラム教という新たな敵を前に揺らいでいる、そう感じさせられているのです。

実は、歴史は繰り返していることを考えるべき

現在のフランス共和制、そしてイスラム教のシリア難民の流入、イスラム国の紛争と残虐に参戦する諸外国…これはまさに、文化の衝突そのものの様相を示し始めています。 ですが、十字軍遠征はイスラムの雄、オスマントルコへのキリスト教国の戦いであるとともに、領土回復が旗印でした。 しかし、十字軍そのものは、バチカンの法王の権威を高めるための手段にも使われ、諸国の財政支出にも加担したのは事実です。 イスラム教にしても、アラブ民族国家に広まったとはいえども、巨大な権力を持つ王族が治めるイスラム諸国もあり、シーア派とスンニ派という教典の理解度や、開祖ムハンマドの後継者云々で、異なる宗派間対立まで起きています。 フランスはフランス人が治めており、国是には従わなければ上手に運営できないのもわかります。 ですが、問題なのは、フランスで生まれたアフリカ系やアラブ系のイスラム教徒が、フランスという国に カラシニコフの銃口 を向けている、という事実です。 国とは何か、国民として誇りに思うならば、AK-47 を発砲するでしょうか? 共和制も王制も、立憲君主制も、存続していくには国民が「国民として誇りに思う」何かを、手に入れなければならない、そういうことに気がつかなければならないのです。

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