本当のお金の価値を考えてみると世界の見方が変わるかもしれない

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預金と貯金の違い

明治時代までは、個人資産というものは維持するのは家庭の中だけの話でした。しかし、そこに国策として登場したのが貯金です。

貯金とは、お金をたくさん所有するのは財閥と企業だけでしたので、国民にも経済の恩恵を与えようと考え出され、個人資産に国が利息をつける仕組みを設けたのが、国内初の貯金システムである郵便貯金です。

始まりは、前島密と呼ばれる「郵便制度の父」と呼ばれる人が創設したことからです。現在でも1円切手にその肖像を見ることができます。

新潟県に生まれ、「縁の下の力持ちになることを嫌がり避けるな、人のためにと善かれと願う心を常に持て」という信条を持ち、近代化に向かう中で庶民の暮らしが良くなることを考え、国字の改良、海運事業、新聞、電信、電話、郵便や教育、保険にまで大きな影響を与えた人物です。

実は、貯金として預けたお金は誰かが引き出さないかぎり、それを元本として国は財源とすることが可能になるのです。

国を国民が支える意味では、現在でも貯蓄好きといわれている日本人は、個人資産を元本として活用するお金の教育が未熟なため、欧米のように、一部のリサーチでは生活費を削っても貯蓄をするといった習慣はまだ低いのかもしれません。

庶民の暮らしがよくなるというのは、個人資産の額次第で利息を付ける銀行のような個人投資の中では、決してインフラ整備などには活用されることがありません。つまり、銀行にお金を預ける意味は、本来は多額の資産を民間の利息で増やし、さらにそのお金を元本に大金持ちや大企業にお金を貸すことで成り立っているのです。これが預金です。

預金はいうなら、銀行が他人のお金を借用して他人に貸し付けて利益を得るのに対し、貯金とはそれまでは国に預けて国が国民の資産を元本に近代化、暮らしの改善を行ってきた歴史の違いがあります。

現代の格差社会を見ると、こうした違いがより明確になってきたといえるのではないでしょうか?

やがて近代日本は、どんどん消費社会へと変貌しますが、その中でお金は個人消費にだけ活用され、本当の豊かさを表す、暮らしの根幹である社会福祉やインフラなどは、結局は国が自ら国民に借金をしなければ、なかなか維持できない時代になったのです。

お金本来の価値を考える場合、将来どのような世界、暮らしに変えていきたいかそのビジョンを示すことにもつながるはずでしょう。

明治時代は、実は豊かだった

西洋文明が流入した明治時代は、今から約148年前ですから、一世紀まえの話になります。

その中で大きく変わったのは、庶民にとって給金という仕組みが変わったことでしょう。

西洋文化はまだまだ庶民には影響が少なかった時期ですが、それでも「貯金」という庶民が財力を蓄えることが可能となった最初の時代ですので、お金というのはそれまでの時代とは価値が異なるものになりました。

現代における「1円」の価値は、数円ではコンビニエンスのし商品は一つも買えないほど、ほぼ価値的にはかなり低いですが、明治時代はい1円以下の通貨がありましたので、見方を変えればその価値は非常に高いです。

通貨というのは非常に面白い特徴があり、例えば円安といった場合、「円が安い」と普通の人は感じるかもしれませんが、そうではなく外貨が非常に高くなったことをそれは意味しています。円安/ドル高というと把握しにくいですが、ドルが以前よりも多くの円でないと、同じ商品が買えないと思えば、円の価値が下がったと理解できます。

輸入を多くすれば、当然輸入先の通貨で取引しますから、自分の国の通貨が下がる場合、輸入大国なら大赤字ですね。輸入した商品も非常に高額になります。

明治時代の通貨の価値は、今よりもずっと高いのは、それは経済がまだ内需依存が非常に強かったからで、輸出品目も少ないために、外国との通商はまだわずかなものだったのです。

明治時代の物価水準は、今が当時の3,800倍あるといわれていますから、当時の1円は3,800円に相当します。

しかし、そもそも暮らしに必要な生活用品は、公務員給与8円~9円で必要十分以上であることから、実はそのお金の価値は、現代社会と大差がないといえるかもしれません。

うどんや蕎麦を外食で食べると、現代のお金では400円前後、アンパンは1個200円くらいです。

一方でカレーライスなどの洋食は、材料に関しては輸入もありますから、当時は現在のお金で1,000円くらい、しかしながら今でも外食のチェーンでは、カレーに何かのトッピングをすると900円くらいはしますから、やはり高額とはいいがたいものがあります。

つまりは、本当に必要な生活費の水準は今よりも非常に安く、代わりにバリエーションが少ないだけです。水道の整備が遅れていても、現代のような環境負荷を与える工業の発達がまだ未熟ななかでは、井戸水という生活インフラもありました。

衛生環境、利便性を追求したからこそ、犠牲にしたのは物の価値を当時の状態と同じく、結局は一定の水準を維持するのも、昔よりもお金がかかっているということなのかもしれません。

なぜお金がないと生きられないのか?

生きるためにお金を得るのは、現代社会ではどうしても必要です。

少なくとも生活に必要なインフラである住居と水は必ず有料であり、野外で自由に無宿で暮らしても、完全に何も手にせず暮らすことはできません。

食料品の残った食材はやがて産業廃棄物同様に処理され、分配されるのではなく、消費されます。公園や空き地も必ず誰かの管理下に置かれてるため、不法占拠されていれば、追い出されることは時間の問題です。

海外の科学に関する様々な論文を掲する、Global Footprint Networkによれば、「Earth Overshoot Day2015」の中で、人間が自然資源とその恩恵を求める量は、2014年時点で1年間で生産できる食料や資材などの生産量をすでに超えてしまっており、8か月弱で消費することがデータで判明したそうです。

面白いのは、人間が消費する食料は植物やそれを食べる動物などで作られますし、プラスチックも原油も考えてみれば自然界が作ったものです。

その大半は元を辿れば植物が二酸化炭素を消費することで、自分の体を作り出すように、資源の大本は二酸化炭素なんですね。従って、人間が天然資源を使って何かを作り出すときは、二酸化炭素を消費しているのと同じことになります。ところが、自然が作り出す資源は二酸化炭素の限られた量の範囲にとどまるため、その消費が末端で上回れば枯渇してしまいます。

このレポートでは、人間の活動が環境に与える負荷を、資源の再生産つまりは人間の生活に使わる生産量とその廃棄物を吸収できる地球上の面積は、本当なら地球の1.5倍が必要であり、ほかの科学者では、最低でも自然界は二酸化炭素から多くの資源を作り出すが、人間は最低でもその3倍を消費しないと、自分では何も作り出せないと試算しています。

つまり水も天然資源であるのに、人がそれを生活に必要な飲料水とする場合は、3倍の資源を使って作らなければならないのです。

当然そこに使われる資源は水以外に、施設を維持する建物を構築し、パイプラインを整備するため、コップ一杯の水でも有料になります。

お金がなければ生きられないというのは、現代の社会全体を維持するためにどうしても必要になってしまった宿命です。これはどうしても避けることができません。

物の価値を知らないとどうなる?

お金の価値は非常に不思議なものです。趣味でフィギュアや好きなアイドルに多額の費用を出費し、その満足と充足感で自分の楽しみを見つけようとした場合、そのための費用は恐らく「今だけしか手に入らない」あるいは、「今しかチャンスがない」といった意識から時間が一番重要なポイントとなって、必死で集めるためにお金が必要だったり、出費をするのかもしれません。

しかしそうした意識は、何か自分以外の商売上の戦略が必ず背景にはあるものです。こうした趣味は、出費する分、その見返りは充足感以外には何もありません。

やってることを、他の人にも共通な価値が見いだせるのなら、買った商品はいつかは数十年先に骨董品や貴重品として高値が付くでしょう。

ところが、多くのそうした趣味に該当するものは、流行に近いものです。どんなに高いブランド品でも20年前の商品は価値はないでしょう。

それが貴重な素材、未来に入手できない技術や文化の起点となった貴重なものなら別ですが、ある程度の数が作られ、未来にそうした趣味の人が現れなければ、どんなに高額で販売しても売れることはないのです。

これは骨董品の商売の在り方がそれを示しています。大変高い貴重な古い物であっても、お店は仮にそれが売れてしまえば、次に同じ価値の商品は手に入りません。店中の商品が売れてしまえば、その店は経営はもうできなくなります。貴重な本を扱う古本屋も同じで、店内にあるのは、すべてその店主の資産です。つまり、骨董が価値があるように、店にも価値があります。

ただしそれは、店主と同じ価値観を持つ消費者が、時代を超えて存在していなくてはなりません。一時期の流行は多数の消費者を生みますが、その人の成長とともにやがては消費者の数は必ず減ります。新しい流行に乗ってくれるのは、次の世代の人々です。

つまり商売は変わりませんが、買う側の人は常にある年齢や世代に限られていきます。

普遍的な価値があるのは、芸術や文化には多いですが、それもまた残されるものは非常に限定的です。

いつの時代でも、普遍的な価値は限られたものになるため、それを見つけるためには、流行といった時間軸の中で価値を見出していては、お金は浪費にだけ使われます。

浪費は自分を非常に満足させてくれますが、後には何も残されることがなく、残ったとしても古臭い時代遅れの物がそこにあるだけでしょう。

お金を”使えない”人たち

例えば手元に数万円の自由に使えるお金があったとして、用事もなく、お腹も減っていないで、特に欲しいものがない場合、人はそのお金をどのように活用するでしょうか?仮に今銀行に預けたとしても、何十年たっても利息は微々たるものです。 そのまま取っておけば、確かに次に収入から余った金額はそのまま貯蓄となってその金額は増えていきます。 しかし、お金は何かに活用しなければ、まったく無意味に残るものです。 理由は、それは持ち主しか利用できない資産だからです。 人が亡くなった場合、その人の残したお金は親族が相続するのが普通です。 個人が遺言を書き残していない限りは、相続できる人物は法定相続人となり、故人に配偶者がいれば無条件で相続されて、そのお金は生き残っている家族に分配されます。 相続には法律ですでに順位が決められており、原則、故人との血縁の近い順からその権利が与えられます。 しかし身寄りのいない故人である場合は、銀行口座にその預金がある場合、5年間誰も引き落としが行われない場合は凍結され、民法上は時効となり消滅します。 その後明らかにお法定相続人がいない場合、そのお金は国庫に入り、お金は「最後」を迎えるのです。 お金は天下の回りものとは言いますが、実際使われないお金というのは、どこかで分配しなければならない運命を辿ります。 従い、生きている間にどのように持ってるお金を活用するかは、その人の人生と全く同じなのかもしれません。 趣味もなく、楽しみも少なくその人の人生は会社で働き、家では食事とお酒くらいで後はテレビを見て寝るという単調な暮らしであった場合、その人から仕事を取り除かれた高齢者になった場合、生きる意味をどこに見出せば良いでしょうか? 確かに「旅行ができるようになる」、「好きなことが出来るだろう」誰もが、現役で働いているときはそのように夢想することはあります。 しかし、取り立てて車を運転するわけでもなく、趣味も特にないなら、旅行費用はどれくらいかかるとか、宿泊費や食費などの出費に不安を覚えるのではないでしょうか? 高齢になればやることはない代わり、いつ死ぬかが自分でもわからないのに、寿命という期限は近くに感じるのです。 やりたいことを自由にやるためには、「好きなだけ使える時間」が必要です。 若いときは、旅行をしてもその後いつでも行かれるといった潜在意識があります。 しかし、”期限付き”の時間だけが残された場合、その時間の活用が逆に不安になるため、限られた時間を旅行といういわば娯楽に費やすことがやりにくくなるのです。 現代はそこに認知症などの高齢者特有の病気の問題や、長寿になったがゆえに、家族と離れ身寄りも少ない高齢者が増えてきています。 その予備軍として、中高年の引きこもりも増えてきているそうです。 お金を活用するというのは、裏を返せばそれは人生にやりがいを見つけることに等しいです。 食べること、寝ることやお酒の味を楽しむためには、「するべきことを成し遂げた」という自信や、生きている実感が必要です。 つまり晩年にお金さえあれば何でもできるというのは、間違いなのかもしれません。 むしろ、晩年をどう生きるかのために、若い時の人生が必要ということなのかもしれませんね。

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