時には「常識」を疑ってみよう‐「常識」の危うさを考える

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「常識」の重要性と危うさについて理解しよう

今回は「お金」に関する直接的な話題とは趣を異にしますが、「常識」について考えてみたいと思います。

普段、私たちは「常識」をもとに様々なことを判断しています。

しかしその「常識」に従って判断を下したとしても、必ずしも「正解」に辿り着かない場合もあるのです。

今回は、そんな「常識」の落とし穴に関するお話です。

「常識」は必ずしも正しくはない?

突然ですが、アメリカで行われたある調査に関する結論があります。

それは「軍隊における生活では、一般に地方出身者の方が都市出身者よりも士気が高い」という結論です。

この結論を受けた人の多くが「それはそうだろう」と感じたと証言しています。

主な理由としては「地方出身者の方が都会の人間よりも、厳しい生活水準と肉体労働に慣れているために順応しやすかったからだ」とか、もっと単純に「都会者は軟弱だから」というようなステレオタイプ的な発想を根拠にする人もいました。

皆さんはどう思われたでしょうか?

こんなことは当たり前の結論だと思われたでしょうか?

もしかしたら、この結論は「どこかおかしいのでは?」と感じられた人もいるかもしれません。

実はその通りなのです。

というのも、この「結論」に対する理由付けがおかしいということではなくて、この「結論そのものが事実と正反対のことをいっている」のです。

つまり上記の調査による正しい結論は、軍隊生活に満足度が高かったのは、地方の人間ではなく都会の人間だったということです。

冒頭の結論は完全に「ウソ」だったわけです。

もしかすると、初めから正しい結論を提示されていても、この実験を受けた人々と同じように「それはそうだろう」と思うかもしれません。

たとえば「都会の人間は職業の選択に対して比較的自由に考えているが、田舎の人々は家計を支える長男が多い。

したがって軍隊に入るよりも地元で家族を支える仕事をしたいと考える傾向が強いから」というような理由が思いつくかもしれません。

この例に限らず、このようなことは人々の行動を理解し、予測したりするあらゆる活動に着いて回る問題なのです。

即ち、私達が「常識」であると考えている事象が実はそうではなかったり、全く逆だったりすることが往々にしてあるということです。

「常識」と「錯覚された優位性」

私達は「常識」に基づいて判断や結論を下すことがよくあります。

たいていの場合、それは正しい結論を導き出すでしょう。

しかしながら、世の中を取り巻くあらゆる「状況」は、複雑怪奇なものが多いです。

そして、私達の「常識」は時にそれに惑わされて数々の誤りを犯してしまうことがあるのです。

先の軍隊に関する満足度に関する例もその一つです。

多くの人が、先に提示された「ウソの結論」を「その通りだ」と信じてしまったように、私たちは「常識」を尊重するあまり、「常識に基づいた推論に欠陥がある場合」を見逃してしまいがちです。

特に「問い」が非常に「抽象的」だった場合や、自らの「優位性」に関して言及する場合に、このようなことが起こりがちであるといえます。

たとえばアメリカ人のおよそ9割もの人が、自分は平均より車の運転が上手いと思っていたり、男性の6割以上、そして7~8割の女性が、自分は平均よりも容姿が端麗であると思っているというデータがそれを裏付けています。

無論、統計学的にいえば「平均」以上が全体の5割以上となることなどないために、一部の人の認識は事実ではないということになります。

このような「錯覚された優位性」という現象はとても多くみられます。

そのために、ある現象について間違った信念をもっているのは自分ではなく他人であると信じたがるのも無理からぬことであるといえるかもしれません。

しかし、こういうことを知っていれば、自らが思い違いをしているのではないかという可能性を考慮に入れ、他人の間違いや失敗だけでなく自らの錯覚や落ち度にも注意を払うことができるようになります。

そもそも「常識」とは?

普段から「常識」について考えることはあまりないかもしれません。

よく引き合いに出される概念であり、私達に非常に馴染みのあるものの、いざ明確に定義しようとすると、これほど難しい言葉もありません。

大雑把に定義するならば、私達が日々様々な事柄に直面しながら学習し、蓄積してきた事実や観察結果、あるいは洞察などの集合体であるといえます。

アメリカの文化人類学者であるクリフォード・ギアツによれば、「常識」とは「一般に受け入れられている慣習や容認された信念、習慣化された判断、または生まれながらの感情が古来より絡み合ったもの」であるとしています。

たとえばイギリス憲法には、統一された憲法典というものは存在せず、そのほとんどがこれまで蓄積されてきた慣習や習わしによって運用されています。

つまりは国民の間で「常識」となっている事柄を憲法(constitution)の一部としているわけです。

ちなみに、本来の「憲法」というのは必ずしも明文化されたもの(つまり『憲法典』)だけではなく、その国の歴史や文化などを含む国としての総体(『国体』)を意味します。

即ち、私達が普段憲法であると認識している文章の集積は「憲法典」であり、国家を運営していくための本当に必要な事柄だけを文章化したものということです。

それ以外の日常生活に根ざす決まりごとや慣習は、ほとんど私達の「常識」として判断され、一種の不文律として判断の基準となっています。

つまり「常識」とは「実践的」なものであり、答えを探求するのではなく答えを「与える」ものとして使われる場合が多いわけです。

ですから、たとえ「常識」が常にあらゆる場面で事実を正確に反映しているとはいえないとしても、これを完全に破棄するなどというのは極端な場合、秩序を放棄することと同義であり、非常に愚かな行為ということになります。

たとえば、目上の上司や先輩に対してのふるまいと、友人や身内に対する態度が変わってくるのは、それに関わる「常識」があるからです。

「常識」の命ずるままに個々の具体的な状況に対処することで、私達は余計な問題やトラブルを抱え込まずに生活をすることができます。

従って、「常識」が本当に正しいのかという懐疑の目をもちつつも、尊重するというバランス感覚を大事にしなければなりません。

「常識」の濫用について

「常識」というのは、遵守することで秩序と安定がもたらされるものですが、場合によっては自己矛盾することもあり一貫性に欠けることもあります。

日常生活を送るうえで「常識」を適用して生きることは、むしろ望まれるべきことであるといえるでしょう。

ただし、日常生活以上の目的に「常識」を用いた場合に、大きな失敗をしてしまうことが歴史をみてみると多くあることがわかります。

有名な例として、アメリカの都市計画者たちが都市部の貧困問題を解決するために繰り返し行った試みが悉く失敗したことが挙げられます。

数十億ドルもの資金を使って10年間でスラムを一掃しようというこの試みは、よりスラムの状況を悪化させてしまいました。

スラム街の人々のために建てた低所得者向けの公営住宅は、数年で非行と破壊の温床となり、社会に蔓延する絶望の中心に変わってしまったのです。

同じように「常識」を根拠として行われた様々な施策が、その意図に反して「より悪い」結果をもたらしてしまうことは実はよくあります。

これは決して私達が常識の「運用」を忘れたというわけではなく、「常識」が日常生活の問題を解決するのに有効であることに過大な信頼を置いてしまう場合に起こるのです。

「常識」が私達を裏切るとき

私達が社会を「常識」によって解釈しようとするときに頼っているのは、ほとんどの場合、これまで培ってきた「直観」だったり「経験」だったりします。

場合によっては、一般に「その通りだ」と思われている「知恵」や「ノウハウ」だったりするでしょう。

しかし、広く一般に受け入れられた知恵やノウハウの組み合わせには、いくつかの推論や前提認識に関する誤りが潜んでいる場合があります。

その代表的なものに「自らの知っている動機や信念といった要因」に注目しすぎてしまうということがあります。

実は様々な心理学や認知科学の実験によって、この要因は氷山のほんの一角だけしか捉えていない場合が多いことが明らかになっています。

無論、ある状況において、関係のある全ての要因を事前に考慮に入れるというのは現実には不可能です。

しかしあまりにも自分の「経験」や「信念」といったものに頼りすぎてしまうと、先のスラム街改革の例のように、大きな誤りを犯してしまうこともありえるのです。

特に集団の行動についての思考パターンは、「常識」についての各々の認識の違いや「適用」の違いによって大きな「ブレ」が生じやすいです。

そのため、一人ひとりが「常識的」に考え、行動したとしても全体としてみると「正解」とは全く違う方向に向かってしまうことがあることを覚えておきましょう。

時には「常識」を疑ってみよう

「常識」というのは、私達が生活する上で欠かすことの出来ない不文律や決まりごとの集積といえます。 「常識」がなければ秩序ある社会を維持することはできません。 しかし、その「常識」が必ずしも「正解」に繋がらない場合があることを覚えておきましょう。 「常識」に基づいた自分の「直観」や「信念」を信じることも大切ですが、そればかりを過度に信頼してしまうと、場合によっては大きな誤りを犯してしまう可能性があることを覚えておくべきです。 ※参考文献一覧 ダンカン・ワッツ(2014)『偶然の科学』青木創訳,早川書房. レナード・ムロディナウ(2009)『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』田中三彦訳,ダイヤモンド社

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