江戸時代の武士の給料は通貨などのお金でなく、なぜ米だったのか?

そこにはお金では買えない日本の古き良き伝統があった

世界三大旅行記の1つマルコ=ポーロの「東方見聞録」の中に日本は黄金の国ジパングと紹介されていました。

実際、江戸時代の日本は世界でも有数の金銀の産地であり保有国でした。

また世界では1816年にイギリスが金本位制(*中央銀行が発行した紙幣と同額の金を常時保管資金と紙幣との打感を保証する制度)を始め世界の貨幣経済の流れに取り込まれてもおかしくない状況でした。

日本では、いち早く金の重要性に気がついたのは豊臣秀吉で大阪城の黄金の茶室や大判小判の金貨も流通させました。

次に江戸時代には徳川家康が貨幣制度を制度化社会の決まりごととされたにもかかわらず大名や武士の給料また国民の税金はもっぱらコメでした。

それはなぜでしょうか?

1、通貨、貨幣などお金の歴史

 まずは日本の通貨、貨幣などお金の歴史についてお話ししていきます。

貨幣は683年の中国の「開元通宝」をモデルとした「富本銭」から始まります。

この「富本銭」は、お役人の給料や水田の売買などに使うことを義務付けられましたが結局使われたのは一部の都市部のみで、なかなか普及しかなったようです。

 次に708年「和同開珎」がつくられました。

「和同開珎」は唐の先進的な文化や制度を積極的に取り入れようと、唐の「開元通宝」をモデルに初めて公的に鋳造・発行したとされる銭貨です。

近畿内においては財物の交換手段として利用されていましたが、それ以外の地域では米や織物など者による取引が大勢を占めていました。

律令政府は「和同開珎」を広く使用させるため田畑の売買などに銭貨の使用を強制したり、多くの銭貨を蓄積した者に異界を与えるなどの流通促進策を講じました。

しかし、各地の豪族や高級官僚が「富貴の象徴」ないしは「富の貯蔵手段」として利用するにとどまり、広く一般に流通することはなかったと言われています。

2、豊臣秀吉による貨幣、お金の製造

その後、豊臣秀吉が金・銀貨幣を作るまで約600年間、日本で貨幣が作られることはなく中国から輸入した貨幣が使われていました。

「永楽通宝」などはその一つです。

16世紀の中頃になると、金・銀の採掘が盛んになり金山や銀山を手に入れた戦国大名は金貨や銀貨を作りました。

中でも有名なのは、武田信玄が作った甲州金です。

1587年〜豊臣秀吉が金貨や銀貨を作り始め1588年には「天正長大判」や「天正菱大判」などをつくりました。

これらは、主にほうび用として使われ、庶民は相変わらず明銭やびた銭を使ってしました。

3、貨幣制度設立 日本で初めてお金の決まりを作った江戸幕府

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は貨幣制度の統一に着手し、慶長6(1601)年に慶長金銀貨を発行しました。

銭貨については、寛永13(1636) 年、三代将軍家光の時代に「寛永通宝」が造られています。

のち、寛文10(1670) 年には渡来銭の通用が禁止され、貨幣制度は完全にわが国独自のものになりました。

この金・銀・銭、3種の異なった貨幣からなる貨幣制度を「三貨制度」といいます。

しかし現代のような通貨制度とは大きく異なり

金貨の場合、単位には「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」があります。一朱金が4枚で1分、一分金が4枚で1両(小判1枚分)という具合に、お金の枚数で価値を数えて計算していましたが銀貨の場合は「貫(かん)」「匁(もんめ)」「分(ふん)」という単位があり貨幣の枚数ではなく、「重さ」で価値を測って使われていました。(銀貨の重さ10分が1匁、重さ10000匁が1貫)。

実際、使う度に天秤などで重さを測って使われていたようです。

またモノによって代金を「金貨で払うもの」、「銀貨で払うもの」、「銅貨で払うもの」に分かれていました。

さらに高額な取引の場合、関東エリアでは「金」を、関西エリアでは「銀」を使う独特の風習(”関東の金遣い、関西の銀遣い”)金・銀・銅ではそれぞれ単位も呼び名も違っていましたし、いくらの金貨といくらの銀貨を交換するのかという相場も頻繁に変わっていたので、買い物のときは計算が大変でした。

4、現在につながる職業や地名のルーツ

そこで発達したのが「両替商」でした。

両替商とは文字通り、金・銀・銅の交換を専門とする商人ですが、経済活動が活発化するにしたがって巨大な富を得るようになり、単なる両替だけではなく、人々からお金を預かったり、貸し付けたり、遠く離れた土地へ送金をしたりするなど、今の銀行のような役割を果たしていました。

特に有名な両替商には鴻池、三井、住友があります。このうち三井・住友はそれぞれ現在の大手銀行グループへと発展していくことになります。

また金貨を作っていたところを金座、銀貨を作っていたところを銀座といい金座のあったところは今の日本銀行、銀座は東京の地名など現代につながっているものもあります。

5、貨幣制度(お金の決まり)は定着しなかった理由

そして今回の本題、なぜ貨幣は定着しきれなかったのでしょうか?

参考書を開くと“貨幣に対する信用が現代ほど高くなかったから”とか

“お米に代えて納税に使えるほどの量の金貨・銀貨を準備できなかった”などありますが、それならばすべて給料や税金をコメにする理由にはなりません。

私はそこには別の理由があり日本が古代より大切にしてきた国民性、政治のあり方があったのだと考えます。

その理由を“コメ経済にすることによって富の偏在を防いだ。”と考えます。

通貨は何年も何十年も貯めこむことができますので貧富の差は拡大していきますがコメの場合は痛んでしまうので長くは貯めこむことができません。

そのため多くの人々にコメが行き届いて飢餓を防ぐことができる。

長い間貯めることができないので貧富の差は開きにくくなっているなど仕組みとなっています。

ここには日本特有の“知らす政治”という政治的な考え方が反映されています。

この“知らす政治”というのは、あるべき姿を皆で共有するというもので“和”や“結”というものがとても大切にされています。

互いに必要な役割を定め、みんなで一致団結、協力して国づくりをする

そして食べ物についても日本は古代から皆が食べられるようにという考え方が尊重されていました。

また人民は「大御宝(おおみたから)」=天皇の宝とされてきました。

大名、領主はその天皇の宝を預かる存在で決して重労働を課せられ飢餓に苦しめられてきたということは基本的にはありませんでした。

これらについては日本最古の本「古事記」にも記されています。

その考え方は江戸時代にも引き継がれ、江戸時代の大名は自然災害などで苦しんでいる人民を助けるために堤防を作ったり、お倉米を放出したりして借金までして人民を助けようとしていました。

外国の一部の国のように人口の数%の特権階級がぜいたくをするために一般市民が搾取されるのではない、自分1人だけがよければあとはどうなってもよいというのではなく、皆で政治は理想を共有して、食べ物は皆が食べられるように生きていこうと教えられてきました。

現に江戸時代には淀屋辰五郎という大阪の商人が「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」という理由で財産を没収されています。

その財産は金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。

また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上りました。

“知らす政治”が尊重されていたから淀屋辰五郎は財産を没収させられたという側面もあるはずです。

まとめ

現代の日本においても伝統を引き継いでいる部分はあります。 たとえば、会社の社長の年収と新入社員の年収は10倍以上ある会社は日本にはとても少なく、総理大臣ですら3,000万円程度です。 しかし外国では会社の社長と新入社員では年収の差が100倍近くになっている会社も珍しくありません。 近年では日本も個人主義、成果主義が導入されている会社も多く見受けられますし長者番付ランキングに入る会社の社長は資産が1兆円を超える社長もいます。 グローバル化が浸透してきています。 グローバル化が進む現代、貧富の差が少ない世界、成果主義の世界どちらが良いのか一概には言えませんが日本もグローバル社会に取り込まれつつあります。 しかし我々は“知らす政治”といい、あるべき姿を皆で共有し互いに必要な役割を定め、みんなで一致団結、協力して国づくりをしていたこと。 そして人民は“大御宝”=国の宝とされてきたことを正しい日本の歴史は認識しておく必要があります。

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