ギャンブルをする人の共通点はいくつか当てはまります。
射幸心に煽られてしまう。
一度でも大金を手にしたことがある。あるいは見たことがある。
(その場合努力やコツコツと貯めた実績からではなく、ふと何かの偶然で手に入った場合に限る)
身近な人でギャンブルが大好きな人がいる。
ではどうしてそういう人がギャンブルに陥ってしまうのでしょう?
ダーウィンの進化論の中で種の保存という考え方があります。
生物のDNAは常に変化しその環境の中で耐えられるように進化形成され続けてきているという理論です。
おそらくその考えは間違ってはいないでしょう。
そして、その種の保存は強いものが生き残るチャンスを与えられているというのです。
アフリカのサバンナなどの映像を見るとよくわかりますが、これは野生の環境にだけ当てはまっていることではありません。
人間界においてもそういえます。
まず、今ほど医学が発達していなかった時代は出産ほど危険な賭けは無かったと言えます。
輸血技術もなければ血を与えると言う発想すらなかった事でしょう。
弱いものは母体でも子どもでも息絶えると言うのがならわしです。
大人になってもそういえます。
日本人の平均寿命は60歳と言われていました。
病気にかかれば弱いものは死しかありません。
強いことに憧れ、強いことが絶対であるという先天的な思想が私達人間の脳にインプットされて受け継がれているのです。
勝負の世界でもそうです。
生きるために行ってきた狩りは強いものがリーダーであり、その成果を独り占めにできました。
配偶者に与えることで力の鼓舞とコロニーを形成させていく、自然な姿です。
やがて育てるという生活習慣が生まれたときに、これもまた強力しあう中でリーダーたるものが出てきました。
リーダーからは支配が生まれます。
リーダー=強人という図式は、進化論ので言うところと同じ位置ですから皆暗黙的に従います。
当然支配から逃れたい、あるいは支配を自分のものにしたいと思うようになるわけです。
争いがそこで生まれます。
日本における争いは歴史上多々ありました。
その主君においてでさえ、天皇という神に近い存在にしたがっていた時代です。
どの時代においてもみな強いものに巻かれるということが存在していました。
いわゆる劣等感です。
常に強くいたい、あるいは強くなるためにはと言うことの繰り返しです。
太古から強くなるための進化をし続け、今度は意志の中で強さを求めるように成長してきた我々は強く無いことに耐えられないとう部分が切り離せなくなってしまっているのです。
自殺する人は強さから逃げたと海外では非難されるくらいです。
スポーツの世界では参加することに意味があると、悠長なことを言っている人は真の競技者ではないと言われるそうです。
勝たなければ意味が無い。
練習も成績を重視して、自分の記録を上げるための投資であるがためにその結果が伴っていなければやる意味が無いわけです。
投資という賭けをした分、元を取る以上の何倍もの結果として評価されることに生きがいを持っているからこそ、その世界が繁栄していくのです。
生きることに勝負をかけるというとかなり危険な発言だと非難をうけそうです。
しかし、現に成功を収めることが勝つことであるならばそうした考え方は理にかなっているとさえいえます。
また、種の保存の理論からしても的を得ています。
既に遺伝子レベルで勝ち負けに反応してしまっているのであるから仕方がないといえます。
人生の、仕事の成功という勝ち組は目に見えた形で言えば大金が手に入るという事になるでしょう。
巨万の富はそれだけで成功者の代名詞になるのです。
お金のない負け組みはその勝ち組にあやかりたく巨万の富を得るチャンスをねらいます。
理由は勝つことに意味があるからです。
遺伝子レベルでしか捕らえられていないわけですから単純に富を得る方法を考えます。
すると一回であるいは一瞬にして手に入る方法がギャンブルであるとわかるのです。
幼い頃に父親が持ってきた大金。それがギャンブルであった場合に簡単に手に入ると脳裏に焼きつくことでしょう。
それが、毎日少しずつ蓄えてきたものであった場合ならば、その価値は全然違った角度でインプットされていくことです。
勝ち組になるための手段でギャンブルを選ぶことは無いわけです。
もっとも恐ろしいことは勝ち組=お金持ちという乱暴な味方を推し進めた考え方の射幸心です。
ギャンブルをなるべく遠ざけたい人であっても、射幸心を持ち出されれば、今の生活に不安がよぎるものです。
満足していない生活環境で幸せになるには、もっともっとお金をと叫び続ける射幸心。
勝ち組にならなければ幸せになれないが、今すぐにはなれない。計画的になれるように頑張っても時間がかかりすぎるなどと
随分乱暴に誘導されると解決方法はギャンブルにたどり着くことにしかなくなります。
身近な人で失敗をしている人を見ていたとしても自分は違う、同じような過ちをしないとさえ感じさせてしまうのです。
賭けるのがお金ではなく人生とさえなってしまうのがギャンブルの怖さです。
借金がそこから取り返しのつかないほど生まれます。
射幸心の怖さは同時に借金に陥れる入り口とさえいえます。
そもそも博打は手持ちのお金を一端預けて、掛けて行う売り掛け掛買いのようなものです。
溜まった勝ち分をもらう代わりに負けて溜まったお金は取り立てられるだけです。
そしてやり続けた結果はテレビのニュースでもわかるとおりです。
悲惨な結果にすらならないことばかりです。
本当の当たり外れは生き方です。
ギャンブルはやってみなければわからないもの。食べてみなければわからない食事と同じです。 別の見方をするのならば、生き方を修正させられるすごさも持っています。 ゆえに、その答えを知りたいがために参加するのです。 これは自分の人生そのものです。 自分は強く生きているか、成功しているかを目の前の馬券や宝くじやパチンコやポーカーといったゲームにかけるのではなく、 そんな小さな世界以外の所で自分の考えが受け入れられているのかを推し量るのです。 そしてその生き方が外れていると思えるのならば当たる方向へ修正する。 ダーウィンの進化論と同じ道を模索すればいいのです。 ギャンブルとは勝たなければ意味が無いのですから。
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